経絡治療勉強会

http://kansaitoyohari.com/

月に一度

経絡治療の勉強会に参加しています。

 

会の名前が

 

日本はり医学会

に変わりました。

(東洋はり 関西 左が旧サイト)

 

下が会のロゴです。

 

森ノ宮医療学園専門学校で、例会があります。

4月12日に予定されていた例会は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりましたが、4月26日に、オンライン例会がありました。5月4日と6日と24日にも、オンライン例会がありました。

会長中野先生が、惜しみなく沢山の情報を公開され、大変感謝しております。

 

次回 オンライン例会開催予定日

 6/21 7/19

 

次回 実際の例会は、

森ノ宮医療学園専門学校で、9月開始予定です。

 

 


 

https://www.toyohari.net/thblog/3444/

東洋はり 本部 動画でとても勉強になるものがありました。

上記サイトでご覧になれます。

経絡治療家への道のり

 

元々は、無医村の医者になるのが、子供の頃の夢でした。きっかけは、単純で、中二の頃に観た一本のテレビ番組です。その当時の長崎県五島列島の諏訪之瀬島というところのルポというか、ドキュメンタリー番組で、医療過疎の実情が浮き彫りにされていました。中学・高校と自分なりには、勉強を頑張ったつもりでしたが、高3の頃、進路指導の先生に、「一浪しても、医学部は中村君には無理やで」と言われました。

 

そのころ、自分には何が向いているのだろうかとあれやこれやと悩みました。体育が、10段階評価で、中高オ-ル10だったので、体育の先生になろうか?田舎に憧れがあるので、農学部の獣医学科は、どうだろうか?社会福祉主事という仕事も他人に役立つ仕事でいいかもしれないなあなどと考えを巡らせておりました。そんな折も折、当時『蛍雪時代』という高3向けの受験雑誌に、明治鍼灸短期大学のことが、数ペ-ジにわたって掲載されていました。コンピューター診断の自己分析で、医療・福祉の分野のど真ん中を指す自分の性格・傾向からみて、目標水準を下げて、この学校を受けるのも手だなあと思いました。

 

こういう流れで、明治鍼灸短期大学に入学しました。香川医大も受験したのですが、案の定落ちました。入学して間なしの頃は、未練が捨てきれず、並行して医学部の受験勉強をしていたのですが、前期テストの頃になると、生理学が超難しかったので、片手間にはできなくなってしまいました。

 

明治鍼灸短期大学は、京都の山奥にあったので、自然を満喫できました。夜は、降るような満天の星空、水がとても綺麗なところなので、夏には、源氏蛍が群生し、寮の友達と沢山採って部屋で放して楽しみました。秋は紅葉、冬は、雪景色と季節の移り行きを楽しめました。豊中出身の友達と寮まで山道を練り歩いて帰り道、全然知らないおばあさんが、「お帰り-」と言って下さる土地柄に、二人で、「田舎は、ええなぁ」と感心したことを思い出します。

 

そんな四季の変化の移り行きも、一年で飽きました。その次の年も又その次の年もそれを繰り返すだけ。結局、鍼灸2年目の頃には、週末になると、河原町かキタで遊んで、大阪の家に戻るという生活になりました。その時わかりました。田舎は、たまに行くぐらいがちょうどいいと。

 

鍼灸短期大学を卒業して、地元(寝屋川)の鍼灸接骨院に務めました。短大1期・2期の先輩もいるところで、短大3期生の僕は、居心地よく働かせていただきました。

 

そこの院長先生は、陽気で豪放磊落な先生で、おしゃべり上手でした。多分に影響を受けました。望診が得意な先生でした。1年半務めた中で、教わって覚えているのは、喘息やアレルギ-体質の人にありがちな眉毛と小鼻の形くらいです。先生が言われたことで、印象に残っているのは、「中村君、そんなに難しい疾患ばかり相手にしないでいいのだよ」と言われた言葉です。院経営スタンスを教えていただいたように思います。

 

学生時代から、経絡治療や中医学が好きだったので、寝屋川の鍼灸接骨院時代も、患者さんの脉を暇があったら診ていました。そこを辞める時、院長先生が、「僕は、望診を主にやってきたけど、中村君は、脉診が似合うと思うな」と言ってくださいました。

 

生活のために、整形外科の診療所や病院のリハビリ科で鍼灸ができるところを転々としました。病院勤務時代に、関西鍼灸出身の先生に東洋はり医学会北大阪支部(現在の関西支部)を教えてもらいました。その先生と一緒に入会したのは、昭和の終わり頃だと記憶しています。十三の淀川区民センタ-というところが、当時の会場でした。今ほど会員数はいなくて、20数名だったと思います。

 

最初に、一昔前の会の歌を聴かされ、今の綱領唱和よりもなんだか怪しい雰囲気で、正直「えらいところに 来てしまったかも」とも思いましたが、午後の実技で、その想いも一変しました。さすがに、東洋はりは、実技の会ですね。最初に、当時副支部長だった伴先生に、補法の基本姿勢とイメ-ジを分かり易く教えていただきました。今も、その時の手ほどきは鮮明に覚えています。

「足を肩幅にひらいて、頭を天井からピアノ線で引っ張られているような感覚で真っすぐに立ってください。」「補法は、鍼を刺そうとするのではなく、鍼をあてて、進まなくなったところで いったん刺すことを忘れて、草原をイメ-ジしてください。その草原の草葉が、風に揺らぐ光景をイメ-ジできたら、サッと抜鍼してください。」

 

この教えはその後ずっと手技に生かされております。

 

東洋はり北大阪支部の会員も少しずつ増え続け、大阪工業大学記念会館に会場を移した後、都合で、隣の大工大高校を会場として教えていただいた時のことです。当時、副支部長で、古田先生という盲人の先生がおられました。その先生の鍼には驚かされました。小里方式で飛陽穴に先生が、一本鍼を打った途端、被験者の(背部膀胱経)背中全体が、グニャグニャに緩んでしまったのです。これを目の当たりにした当時の僕は、かなりのカルチャーショックを受けました。いつの日かこんな鍼が打てるようになりたいなあと思いました。

 

この古田先生は、阪神淡路大震災の影響で、関東に移られました。辞め際に『鍼灸人生』という言葉を僕に教えてくださいました。僕も『鍼灸人生』を語れる経絡治療家になりたいと、その時から今もなお思い続けています。